陰鬱

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暗闇の中の思考〜自分は成し遂げられる人間だ!!〜

いつも死にたがってる奴の家に週一で通っている。今回行った時は割と元気になっていた。

彼はフリースクールに行ってみた(居場所が欲しくて)が、合わなかったらしい。様々な年齢層の人たちが、各人ゲームをしたり本を読んだり寝たりと好き放題できるスタイルなのだ。そこにいきなりぶち込まれて、更にスタッフからもそこにいる子たちからも声をかけられないものだから、嫌になってしまったらしい。自分から自発的にゲームに参加しようと声をかけても、怪訝な顔されてしまったらしい。

フリースクールの問題点はそこだ。問題を抱えている人同士分かり合えると思ったら大違いだ。そもそも、相手もコミュニケーション能力が低いし、人見知りだ。それ故、こちらから自発的に話しても、素っ気無い態度を取られてしまう。そうすると、せっかく社会に適応しようと努力している彼が、可哀想である。やっぱり、どこに行っても上手くいかないんだ、と余計自分の無力さに頭を抱えることになる。そこの点を、スタッフはただ放任するのではなく、注視すべきなのだが。

まぁ、こういう逆境的体験をしつつも、何回か通ったら案外楽しいかもしれないと。逆に今の状況を上手く切りぬければ、自信が付くかもしれないと諭した。でもフリースクールも色々あるし、自分に合った所をいくつか見学してみれば、とも僕は言った。

そんなこんなで、彼は自分でフリースクール的なものを作ろうとしている。既に不登校や引きこもりがちな子を集めている。そこでまた以前みたいに支援活動をしようじゃないかと。その子の成長も含めて。そう考えていくうちに彼は幾分元気を取り戻した。そして、劇もやっていこうと誓った。家から出ず、人に会わずして、どうして状況を改善できようか。

そんな中、最近は死ぬのが怖いという。「死にたい」→「死ぬのが怖い」に変貌した。これは、着々と死への抵抗感が出て、生への欲求が生じ始めたいい傾向じゃないかとプラスに捉えておく。そして、死ぬのはまだ先だし、君は死なんよと言っておいた。病気不安で悩まされた俺には、死の恐怖は痛いほど分かるのだ。人間引きこもっていると、つい自分のことを考えてしまう。そして、考えを突き詰めていくと、人間の根源的な生と死に行き着くらしい。「なぜ私は生きているのか」「死んだらどうなるのだ」そこには、漠然とした自分なりの答えを以って割り切るか、仕事をして勉強をして、自分を忙しくして、考える暇を失くすかである。

夕方あたりに、奴は狭っ苦しい部屋の電気を消した。灯り一つない深淵のような漆黒。その中で、いつもなにかを考えるのだという。僕は真っ暗が大嫌いなので、非常に気持ちが悪かった。このままこの小規模なブラックホールに吸い込まれてしまうのではないかと。それに、かつての修学旅行の夜を思い出して、現在と過去の狭間を意識が遊離してしまうような、そんな気味の悪い感覚に襲われてしまうのである。

けれども、だんだんと慣れていくうちに、思考が研ぎ澄まされていく。人間が如何に周りの景色や情報の認知処理にエネルギーを使い、我々は思考を鈍化させているか分かる。真っ暗では光すらもない。なんにも見えないからこそ、自分の身体感覚やもやもやした感情に着眼できる。そして、自分が原始に返ったような気分に錯覚する。まるで、母体の胎内にいる赤子のような。まだ悩みも知らぬ純粋無垢なあの頃に戻った気分になる。

その中で彼は幾つか興味深いことを漏らす。「生きたい」と思うことも、「死にたい」と思うことも、どちらも生を放棄しているといのだ。生きたいと思えば、人間の死というプロセスを疎かにすることに繋がり、死にたいと思えば、人間の生というプロセスを疎かにすることに繋がると。生も死も人間の大切な営みであり、それら二つを折衷して生きていくことが、本当の「生きる」目的ではないかと彼は考えるようである。

そして、もう一つ言ったのが彼の「自己愛」に関わることだ。元々、彼は自尊心(プライド)が結構高い人間だった。それは僕も同じ人間だからつくづく分かる。僕がなにを言おうと、受け入れてはくれるが、なにかと自分の意見を主張したがる。それで、軽く問答になることもある。自己の主張の正当性について、非常に自信があるのだ。そして、自分のことを「哲学者」とか読んでしまうあたり、余程自分が好きなんだなと思う。そして、「自分はいつかなにか立派なことを成し遂げられる」「自分は特別な人間」なんて思ってしまう。

そう、彼は暗闇の中で、「自分は特別な人間でいたい、なにか成し遂げるはずの人間だ」と語った。そして、「自分は結局は何もできないし、たいして特別な人間でもない、弱い人間であることも認めなければいけない」と自己を分析した。要するに、特別な人間であるはずの自分が、今半引きこもり状態になり、ほぼ動けなくなっている。その現状に非常に納得がいかないらしい。そして、いつか何かを成し遂げられる理想の自分を愛してやまないようであった。哀れな今の自分と、将来の理想の自分、その乖離に彼は泣くのである。そして、今後も動き続けて、その度に失敗して、自分は特別どころか、どうしようもない無能な人間なんだ。と思わざるを得ないのも辛いようである。失敗を恐れて、自分がダメ人間であることを認めるのを恐れて、今は何も動かなくなっているのだと自己分析した。要するに、過度に膨らむ自己愛を如何に丁度いい形で抑えていくか、そこが課題なのである。自己愛があってこそ、我々は安定して日常的な活動に勤しむことができるが、それが過度に膨らめば、自己愛性パーソナリティ障害の域である。理想の自己や他の人間と比較して、傷つきながら生きていくことになる。彼は最後に自分のことを「自分大好き人間」と自称した。

では何故、自己愛が僕含めてこんなにも強いのか。正直メンヘラと呼ばれる人間は、総じて自己愛が強い。「自分はダメな人間だ、ゴミだ」なんて自虐する人も多いが、裏を返せば、いつでも自分のことを気にかけている。こちらが何を言わなくても、勝手に自虐してくる。それに、こちらが何を言っても、否定ばかりしてくるし、自分の主張を前面に押し出して、良好な関係を築こうともしないのである。そこに、また社会不適合性が見られる。

ユングは自己愛を、幼少期の母親との愛着形成の失敗としている。小さい頃に成し遂げられた小さなこと。例えば、逆上がりができたとか、九九が言えるようになったとか。そういった些細な成功体験を子どもは母親に褒めてもらおうとする。けれども、母親はそれを無視したり、認めてくれないと、子どもは承認欲求を満たせない。そして、自分を愛せなくなる。もっと頑張らなければいけないのではないか。もっと愛されなければ。こうして、心の中に母親という“褒めてくれる存在”、モデルを形成できない。そのために、大人になって無差別に色々な人から褒めてもらおうと奔走する。今まで褒めてもらえなかった分、称賛を求めるのである。

しかし、世の中親子関係が上手くいっていても、自己愛が強い人はそれなりにいる。私は、メンタル持ちの性格や防衛規制に着目する。

うつなどのメンタル持ちは総じて、人より物事を考える。そもそも普通の人間は学校や会社に属していて、そこだけでなく、友達同士や趣味の居場所(サードスペース)を有している。そのために、考える暇なんて殆どない。寝る前くらいだろうか。しかし、メンタル持ちは基本引きこもりがちだ。そうすると、どんなに忙しくしようとも限界がある。気づけば、自分のことを考えている。考えていくうちにやはり思考は研ぎ澄まされて、半ば哲学的な考えが浮かんだりする。そんな繰り返しで、メンタルを病みつつも、自分がまるで孤高の哲学者であるかのように錯覚する。そして、こんな不遇な状況に置かれても、自分は立派な人間なのだと思い込んでしまうのである。人より考える時間があるからこそ、自分を段々と崇めるようになる。現に、「抑圧リアリズム」という言葉があるように、うつの人間は、普通の人間より世界を正確に把握しているというデータがある。強ちメンタル持ちが賢くて、特別な人間であってもおかしくない。しかし、何かを成し遂げて、評価される人間は一握りだ。その非情な現実に、また彼らは泣くのである。

もう一つは、防衛規制だ。防衛規制はアンナフロイトが考えた自我を守るための生得的なシステム,思考様式である。幾つかあるけれども、その中で僕は「自己愛」も防衛規制の一種だと思っている。彼の現状は、「半引きこもり」「将来が漠然としている、夢もない」「過去のトラウマを引きずって生きている」「今やほとんど動くこともできない」これほどまで心身共に疲弊しているのだ。この哀れな状況を彼は認めることができない。この状況を認めてしまえば、彼の自我が危険に晒される。ということで、「将来自分はきっと何かを成し遂げる立派な人間だ。」と自分を好きになることで、今の現状を打ち消し、帳消ししようとしているのだと考える。メンタル持ちの人間は総じて今の状況に満足していない。人生における最悪な状況を、自分がすごい人間だと思い込むことで、目を背けるように、人間はプログラムされているらしい。たかが、引きこもり、たかが、不登校、たかが、通信校生に過ぎないのに、自分はすごい!!と思い込むことで、今日も1日を生きていけるのだ。