陰鬱

考えたこと,感じたこと,思ったことを書く。https://schizzoid.web.fc2.com

百年の孤独

百年の孤独なんていう本もありますけど、それとはあまり関係がなくてですね

人生孤独との闘いだと思うんです。特にムラ社会から抜け出して、自分の人生も、将来も、良き伴侶も、自分の手で選べるようななった。自由すぎるがあまり、全ては散らばっていて、自分で動こうとしない限り、なにも得られない。自由が我々を束縛する。諸々の強制も緩いそんな時代において、我々は孤独と闘わなければならない。

奇跡を以て我々がこの世界に産み落とされるとき、既に孤独な闘いへの宿命が待っている。まずは、母親といかに親密になれるか。この時点で孤独を経験したならば、後々様々な心理的不適応に悩まされるだろう。親という存在はただ一人だ。他の誰にも埋められるものではない。そんな母親からの愛情を受けず、誰にも愛されずに孤独のさなぎの中で生きていたならば、私たちは羽ばたけない。どれだけ肉体的に成長しても、精神は羽をもぎ取られた蝶に他ならない。得られなかった分の愛を求め、彷徨い、苦しむ。既に孤独への闘いは始まっている。

そして、家を出て学校に通うようになっても孤独は付き纏う。親からの自立を求める我々は、しばしば友達を作ろうと奮闘する。しかし、この時既に孤独の味を知っているものは、自らのさなぎに閉じこもり、他人と接することができない。さなぎはなんだかんだ居心地が良いからだ。けれども、人間の本能的な孤独への拒絶は、我々を苦しめる。誰かと関わりたいのに、関われない。そのジレンマの中で、孤独を憎み、孤独を愛す。誰にも認められないことで、更なる傷を負わなければならない。

時は過ぎ、人との関わりが掴めない我々は、青春なるものを捨て去り、自らのさなぎに閉じ籠る。もう大きくなった身体をそのさなぎの中に埋めながら、薄明かりを頼りに外界を見渡すと、そこにはインターネットがあった。インターネットの世界には、沢山のさなぎがあった。そこで、我々はシンパシーを覚え、沢山のさなぎの元へ向かう。けれども、上手く関わることはできない。さなぎ同士、姿を見ることができない。そのさなぎのフィルターのおかげで、平気で人を傷つけることもできる。さなぎ同士が分かり合えることはない。こうして、一時的な孤独を癒しながら、また孤独に舞い戻って、気づけばネットの中のさなぎ達に埋没し、寂しさを嘆く。

しかし、救いはある。それは良き伴侶、パートナーの存在だろう。友達なんていずれは疎遠になるのだ。それなら、一生添い遂げる者が1人でもいれば良い。親が1人しか存在しないならば、良き伴侶も1人のみ。かけがえのない存在は、1人しかいないが故に、恒久的に孤独を癒すこともできる。親の愛を知らぬとも、その分の愛をくれる者は必ず存在する。いつかきっと幸せになれる。さなぎから抜け出せる。

しかし、闘いは続く。良き伴侶はそうそういない。特にさなぎ同士じゃ、関係は長続きしない。いつか裏切られるかもしれない。捨てられるかもしれない。ここにもまた孤独への闘いがある。結婚に永遠の愛を誓うのは、やはり相当の理由があるのだろう。裏切られたら辛いだろうから。やはり、不倫というものは、いけないことだ。

そして、たとえ本当の愛を見つけても、いずれその人は亡くなる。ピタリと動かなくなって、顔に白い布をかぶせられて、なにも喋らなくなる。年老いても、我々は孤独への闘いだ。もし、僕が好きな人と一緒になれるのなら、僕が先に死にたい。孤独とは辛いものだから。

人生100年時代、我々は常に孤独だ。たとえ、家族に恵まれ、友達に恵まれ、沢山の恋愛をしても、精神的には孤独だ。その孤独の中で、人は何かで誤魔化し誤魔化し生きていくのだ。そして、自分の将来を掴み取っていく。孤独は辛い。でも、いつか幸せになれた時、あの時の孤独な体験が、幸せを包み込み、我々はより幸せを噛み締められるだろう。