陰鬱

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相模原障害者施設殺傷事件 障害者はなぜ差別されるのか

昨日、相模原障害者施設殺傷事件の実行犯である植松聖が一審で死刑判決を受けた。控訴はしないつもりらしいが、果たして。

障害者差別という問題は難しい、基本人間というのはみんな平等でも無いし、我々は同じ日本に住む人間を様々な社会的カテゴリーで分類しがちだ。この世には無数の人間がいるから、カテゴリー化しないと認知処理できないのである。

あいつは高学歴、あいつはメンヘラ、あいつは陽キャ、あいつは馬鹿、あいつは容姿が悪い、あいつは障害者...。

そして、障害者もまた一つのカテゴリーに分類され、そのカテゴリーの中にステレオタイプが内包される。障害者のステレオタイプといえば、非生産的で、意思疎通ができなくて、無能で、怖い。などなど。

これは一見マイナスなステレオタイプに思える。でも仕方ないのだ。我々は障害者と接する機会があまりにも少ない。今まで触れちゃいけない存在のように扱ってきたからだ。だから、障害者の内面に迫ることはない、そうなった以上、我々は外見と風評でしか物事を判断できないのだ。だから、我々は障害者を差別してしまう。触れちゃいけない存在は、我々にとって異質な存在であり、畏怖すべき存在だ。だから、正直言うと障害者が差別される筋合いはないが、無意識に差別してしまう気持ちも分からなくもない。

かといって、障害者を殺してよいのか?それはノーだ。例えば、障害者が非生産的で役立たずだから殺していいのか。それならば、この世の引きこもりやニートだって非生産的だろう。非生産的な人間を殺したら、果たして何人の人が残るだろうか。

障害者は人様や家族に迷惑をかけるから殺してよいのか?障害者限らず我々は自立したとしても、人に迷惑をかけながら生きていくのだ。自分は自立していると実感していても、実際は親やパートナーや勤め先から国まで、色々な人の存在があって、我々は自立しているのではないか。我々は生きているだけで、みな迷惑をかける存在なのだ。

といっても、いくつか反論があるだろう。だから、私はこう問いかけたい。

「障害者は不幸で非生産的じゃないと思うのは親のエゴだが、かといって障害者が不幸で非生産的だと思うのも、部外者のエゴである」

正直いって、我々部外者が障害者の生き死に立ち入るべきではないのだと思う。障害者を持った親が不幸だとか、障害者は迷惑な存在だとか、そう思うこと自体感想に過ぎないし、自惚れ(エゴ)である。

別に差別するなと言わないが、障害者を貶して自らの優位性を保ち、自惚れている輩を見るのは大嫌いだ。

君はどれほど有能で、生産的で、迷惑のかからない立派な人間なのだろうか。

障害者を馬鹿にする前に、気にかけるべきは自分自身なのではないか。私はそう言いたい。       2020/2/17