陰鬱

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謙虚論

「人よ謙虚であれ」

これが私の生きる上でのモットーである。

なぜこう思うかというと、私自身謙虚ではない人間(特に父親)に散々苦しめられてきたからである。

「謙虚」と一言で言われてもあまりにも漠然とし過ぎているので、もう少し詳細に記述してみようと思う。

謙虚とは、「自尊心(プライド)を抑えること」これに尽きる。自尊心こそが、人間を増長し傲り高ぶらせる諸悪の根源なのである。

別に自尊心を貶めろとは言わないのである。何事も程よいバランスが大事なのであり、自尊心が高過ぎても低すぎても生きていく上で不適応が生じる。「自己愛性パーソナリティ障害」に発展することもあるだろう。そして、自分のみならず相手にも悪い印象を与えて、時には人を傷つけかねない。また、高過ぎる自尊心とナルシシズム紙一重ではないだろうか。

自尊心が高いことが核となり、生じてくる問題として具体的に挙げるなら、

「譲歩ができない」「謝れない」「頼れない」「常に人と比較して自分と相手を傷つける」などなど

「譲歩ができない」

譲歩とは、自分の主張したいことは主張するものの、相手の意見も尊重して肯定することである。相手の意見を否定するなら必ず部分否定を使うことになるだろう。

「確かにそうだよね、でも〜〜でもあるよね。」みたいなのが譲歩である。

これが自尊心の高い人間はできない。自分の意見は絶対なのであり、相手の意見は彼らの脳内からは蚊帳の外である。たとえ、心の中では自分の意見が正しくなかったと感じても、それを訂正することはプライドが許さない。だから、彼らと意見を交わしたところで会話不成立、時間の無駄なのである。ひたすらにこちら側が馬鹿にされるだけである。

「謝れない」

これも先ほどと同じで、たとえ自分が十中八九悪かろうと、決して自分の非を認めない。これは本当に理解できない。謝れば大抵のことは丸く収まるじゃないか。そこまでして自己保身に回る彼らの思考回路は理解不能

「頼れない」

プライドが高いと他人への援助要請すらできない。

私の父の例を挙げよう。彼は不潔恐怖から手を洗わないと気が済まない強迫観念に駆られる強迫性障害で苦しんでいる。誰から見てもその儀式行動から彼が精神障害であることが明白なのに、勧めても決して病院に受診しようとしない。それどころか狂うようにこちらを怒鳴り散らしてしまう。

私宅監置や閉鎖病棟などで精神障害者が差別されていた時代に生きてきたこともあるだろう、文化的要因が大きいかもしれないが、個人的要因も捨て難い。

彼は障害者雇用で職場で働く障害者をしばしば馬鹿にしていた。無能で甘えている社会不適合者、そんなレッテルを貼っていたのだ。プライドの高さは歪んだ正義感をも生む、社会に役に立たない人間は彼にとってゴミと等しかった。

しかし、現実は無情。彼自身も精神障害で苦しみ続けている。でも、今まで馬鹿にしてきた彼らとは一緒になりたくないだろう、決して彼は救いの手を永遠に差し出すことはできない。誰も助けてくれないのだ。

「常に人と比較して自分と相手を傷つける。」

私の父親は学歴と知能で人を判断する人間だった。テレビに出演している芸能人だとか一般人を見るや否や、痛烈に彼らを非難するしあるいは賞賛する。

彼らは、自分より賢いものには手を出さないが、自分より愚かな人間だと判断した場合は、もうダメ。その人を人格否定して自分の優越性を誇示するのである。それを息子である私にもやるのだから、性根腐っている。

相手を傷つけてしまうことは明らかだが、日頃から相手をそういう目で見ていたのなら、彼ら自身も心身共に疲弊するだろう。


などなど、自尊心が高いことで起きる弊害は挙げればキリが出ない。では、そういった人間に救いはあるのか。

救いの道はただ一つ、自分の愚かさを自覚するまでである。ただ、人間の大半は馬鹿である(知能ではなく情動的知能に於いて)。自分を常にフィードバックし、自己内省できる人間がどれほどいるだろうか。

人は自分のダメな部分を自覚、「気づく」ことから人格成長が促される。彼らも「気づく」ことで自分や相手を無意識に傷つけていたことを知り、少なからず不快な言動を抑制することは不可能ではないだろう。この「気づき」は自尊心以外にだって適用できることだ。

頑固な彼らを気づかせるためにも、我々や第三者がガツンと言ってやらなければならないし、それ相応に尊重を持って接さなければならないだろう。

というのは、理想論に過ぎない。実際彼らのような人種と接すると、あまりの頑固さと不快感で辟易してしまい、結局彼らを助けたいなんて綺麗事は言えなくなってしまう。これが、自尊心の高い人間へ支援やアプローチをする際の最大の壁なのである。その壁を乗り越えられるのは、しばしば医者などの第三者なのである。なぜなら、第三者は彼らに対してなんの情も無いわけで、つい彼らを甘やかすようなこともしないわけであり、彼らの「矯正」には最善の人選であり方策なのである。 2020/2/25