陰鬱

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助けさせてもらうこと

悩める人を身体的或いは精神的に援助する際に、案外軽視されがちな要素があると思う。
前回も書いた訳だが、とりわけ「謙虚さ」が援助行動にも必要不可欠である。
言い換えれば、「人を助けてあげる」のではなくて、「人を助けさせてもらっている」ことが大事なのだ。
どうしても「助ける側」と「助けられる側」では能力も経験も知能も異なる、どうしても助ける側に力があり、助けられる側は無力なことが多く、その間に上下の差ができることは必然である。
勿論、悩める人同士で助け合いをしたとしても、この差は出現する。悩める側にどれほど近付こうと上下の差は拭えはしない。では、どうすればよいか。
答えは援助行動に於ける言動に、「助けさせてもらっている」というニュアンスを付与しながら、意識的に行動することだと思う。
引きこもりを例に挙げてみる。引きこもりは複雑な要因が絡みつつも、彼らは自発的に部屋に篭るのである。それが彼の考えうる範囲の最善策であり、幸福なのかもしれない。そこから、我々の「援助行動」という名のエゴによって無理やり幸せから引きずり出す、と捉えることだってできる。
もちろん、引きこもっていれば閉鎖的で自由もなく、憲法生存権が規定する健康で文化的な最低限の生活を送ることはできないだろう。主観的に考えても引きこもりが幸せだとは到底思えない。
しかし、世の中には出家剃髪して山の中で修行することに幸せを感じる人もいるだろう、会社から帰ってゲーム三昧することに幸せを感じる人もいるだろう。引きこもりに幸せを感じる人だっているに違いない、その幸せを一時的に排除して社会に引きずり出すことは、あまりにも烏滸がましいのではないか。
これまた、精神病の治療に「治療抵抗」が起きるように、今ある現状から脱したくないこともある。精神病質は辛いものだが、それ故に社会に参与しないで済んでいたり、ちやほやされていたり病気利得なるものが存在する。治療することでいずれは社会に復帰せざるを得なくなる。それが本当の幸せだろうか。
このように、「人を助ける」ことには少ながらず自己中心的で一方的で烏滸がましい点があることを否めない。援助者の中でこの点について考えられなければ正直ダメだと思う。ロジャースはカウンセリングの構えとして、無条件の肯定的関心、共感的理解を挙げた。
クライエント(カウンセリングを受ける人)に対して積極的に関心を持ち、否定せず肯定すること、そしてその人独自の認知と考え方を理解することを推奨した。
また、カウンセリングの手法として「傾聴」が挙げられる。何も否定せずに、ただひたすら相手の言いたいことを聞くことに徹することである。
これらの技法は自尊心の高い人間には無理である。彼らは相手より自分が大切なので、相手の言い分にケチを入れ否定せざるを得ないのである。相手に関心を持とうともしないだろう。だから、謙虚になるべきなのである。「助けさせてもらっている」という考えが必要なのだ。
そのモデルとなるものがオスカーシンドラーと、マザーテレサであろう。
ナチス側にいながらも軍需工場を作り、そこにユダヤ人を労働力として雇うことでユダヤ人をナチスホロコーストから救い出したオスカーシンドラー
「6年間に及んだ殺戮。世界中が犠牲者たちを悼んでいる。私たちは生き残った。君たちの多くは、私のところにやって来て、私に感謝を述べてくれた。だが、自分自身に感謝をするんだ。恐れ知らずのシュターンに感謝を。そして、君たちのことを心配してくれ、いつでも死と向かい合ってきた人々に感謝をするんだ」
自分よりも相手のことを第一に考えてきたシンドラーだからこそ、言える名言ではないか。彼は遊び人でもあったが、謙虚でもあった。
彼は腐るほど金を持っていて、多額の賄賂を要人に与えながら、ユダヤ人を救った。彼は終戦時には無一文になっていたという。ユニセフ親善大使のアグネスチャンを見よ、なぜあれほどの豪邸で暮らしていられるのだろうか。
「この車。ゲートはこの車を買っただろう。どうして手放さなかったんだ?10人が救えた。10人だぞ。あと10人が。(ナチス党員のバッジを取って)このバッジ。2人は救えた。金でできているから。あと2人は。ゲートは、あと2人は渡してくれた。少なくとも1人は。1人はこのバッジで救えた・・・。あと1人は救えたのに・・・私はしなかった!しなかったんだ!」
もはや彼にはお金など要らなかったのである。彼は謙虚さを通り越して、愛と情熱で激動の時代を生きた。自分の人生を犠牲にしてまで、人を救う覚悟のある者はどれほどいるのだろうか。
また、マザーテレサも謙虚の化身であろう。
コルカタのスラム街に自ら身を投じ、貧困と飢餓と疫病に苦しむ人々に安らぎを与えたテレサ。「死を待つ人々の家」(今で言うホスピスか)を作り、死に向かいつつある人々を献身的に保護した。
彼女の凄さは自分をも貧しい状況におき、貧しき人々への一体化を図ったことであろう。これは、救う者と救われる者の上下の差を、乗り越えようとした苦闘の証明である。謙虚さ無くして、これほどの生き様は送れないだろう。
このように、著名で卓越した「援助者」には、謙虚さが必要不可欠なのである。それに「愛」が加われば、必要十分だ。
最後に、戸塚ヨットスクールで有名な戸塚宏氏を挙げよう。
彼らも不登校や引きこもりを「助けてあげる」者であるが、彼に謙虚さは微塵に感じられない。
彼の著書に「私が直す」がある。シンソウ坂上という番組内で「体罰は相手を服従させるためにする」と発言した。
どちらも謙虚さと愛が欠如していることが明白である。彼の誇大した自尊心と絶対的自信は、自分の時代錯誤な歪んだ信念を変えようとはしない。変えようとすれば彼の自我は崩壊するだろう。謙虚さに欠けた彼に残された手段は、体罰しかなかった。己の正当性と負のエネルギーを暴力で発散するしかなかった。
謙虚さと愛が人を救うのである。そして、人を「助けてあげる」のではなくて、「助けさせてもらっている」ことが大事なのだ。何よりもまず、相手を尊重することから、援助はスタートする。