陰鬱

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希望

今日はひどく憂鬱な気分である。春休みはいつもこんな調子だ。誰とも関わることなく、家でいつも一人過ごしている。死にたくなる。大学が始まれば、少しは寂しさを紛らわせるかもしれない。でも、学校に通うのもまた憂鬱なのである。

もう助かることのない、不治の病に人間が侵されたとき、最初は拒否をするものの、いずれは自分の死を安らかに受容するのが常らしい。(キューブラーロス)

否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容

死の受容の五段階説として知られている理論だが、この五段階のいかなる時期にも人は「希望」を持ち続けるらしい。死の恐怖から打ち勝ち、受容の段階に至り、今まさに死を迎えようとする最終段階に至っても、人間は最後まで希望を持ち続けるらしい。

私ももう人生に限界が来ているような気がする。この春休みが終わって、僕は果たして大学に行けるのだろうか。大学に行って、孤独なキャンパスライフを送って、忙しさで自分の孤独感をひた隠しにして、僕の心は壊れてしまうのではないか。

それでも、僕は希望を持ち続けている。いつか、生きててよかったと、そう思える時が来るのではないか。今のまま生き続ければ、確実に僕は野垂れ死ぬだろう。いや、きっと失意のまま死ぬと思う。そんな苦しい思いをして生きるなら、さっさと死んだほうがいいように思う。でも、死ねない。タナトフォビア(死恐怖症)だから死にたくない。僕はいつまでも一縷の希望の糸にしがみついて、哀れな人生を送るのだろう。希望が幸福に繋がると思ったら大間違いなのではないか。往生際悪く、いつまでも希望にしがみついているから、こんな苦しい目に今後も遭わなきゃいけないのだ。もういやだ。さっさと希望なんて捨ててしまいたい。

セリグマンの学習性無力感という言葉がある。人間はいいことや役立つことばかり学習するのではない。暴力といった悪い行為も学習するし、無力感だって学習してしまう。

例えば、

電気ショックが流れる部屋に二匹の犬が入れられる。一匹の犬はスイッチを押すことでショックが止まるように仕掛け、もう一匹はどうあがいてもショックが止まらないようにする。

そうすると、勿論一匹の犬はショックを止めることができるが、もう一匹は成すすべがない。そして、直に無力感を学習してしまう。

次に、ショックから容易に逃げられるように部屋に逃げ道を作る。そうすると、一匹はショックから逃れるが、もう一匹は決して逃げようとしない。要するに、簡単に逃げられる状況になったにも関わらず、無力感を学習した犬は逃げようとはしない。自分が何をしてもダメだと学んでしまったからだ。

 

私も、是非とも無力感を学んで一生部屋に籠ってしまいたい。二日三日家にいるだけで憂鬱になってしまうのはあまりにも辛い。この学習性無力感の行きつく先は、うつ病や引きこもりだろう、ある意味心の防御反応とも呼べるかもしれない。僕はうつ病にも引きこもりにもなれない。いつまでも救いのない希望にしがみついて、また絶望の最中に振り落とされるだけだ。