陰鬱

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我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

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D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」ポール・ゴーギャン


人の悩みや苦しみなんて、言語化するのも烏滸がましい形象のない観念であるけど、それでも人は心の奥底にある葛藤を、絵や文字で表現したいと思う。そして、この絵の詳細を語るのは割愛して、このタイトルに僕は注目したいと思う。色々な様相を呈する複雑怪奇な悩み・苦しみは、この三つの命題に還元されるのではないかと思う。

「我々はどこから来たのか」

これ即ち「生」なる根元を指す。我々がどこから来たのか、それは勿論「母胎」だとか「生殖細胞」と答えることはできるけど、それはあまりにもナンセンスではないか。その生殖細胞ですら無かった無形の私たちは、一体どこから来たのか?それについて、答えられる人間は居ないだろう。それこそ、神のみぞ知る世界である。その神秘的な自分の出自を知りたいと思うのが、人間の性なのかもしれないが、本当に大事なのはそこではないのだろう。「我々がどこから来たのか」、そこから付随する命題として、「我々はなぜ生を受けたのか」が生じる。

よく家庭も人間関係も何もかも順風満帆に進んできた人が、親に向かって「産んでくれてありがとう」なんて綺麗事を言っている。これは幸せなことだ。

しかし、虐待されてさらに障害を持って、毎日泣き続けているような人間が、「産んでくれてありがとう」なんて言えるわけがない。ポケモンのミューツーみたいに、「なぜ私を産んだ?!!」と問いかけたくなるだろう。そして、自分の不遇な状況を哀れむしかないのだ。こんな思いをしてまで、私が生まれてくる理由はなんだったのか。なぜ、苦しみ多きこの世に生を授かったのか。これは、色んな人と関わってきて、よく聞くことである。

そこから反出生主義を唱え始める人もいるが、それはナンセンスだろう。そもそも、普通に生まれてくれば、人生に喜びは多いのだから。それに人間は所詮動物なのだから、出生は止められぬものだ。ならば、私は「優生思想」を唱えるわけだが、その思想はナチスの悪しき「T4作戦」にて悪用されてしまったので、声を大にして主張することは難しくなった...。

この出自を巡る命題は、それほど重要ではないと考える。なぜなら、我々は生まれてしまった以上仕方ないからだ。生きるしかないのである。こんなこと考えたって、結局はどうしようもないのだ。それならば、「自分の生きる意味」を模索した方が非常に有意義である。

「我々は何者か」

これこそ、「自分の生きる意味」を問う命題と似通っている。自分が何者か、これはアイデンティティの問題とも重なるのだが、重要な命題である。自分が何者か知ることは、まず将来を考えることに繋がる。自分が何が好きで、何が得意なのか、それを知ることは職業選択にも活きることである。そして、自己の存在を自覚することで、自分は「生きていて良い」と思えるのである。

自己の存在を自覚して、「生きていて良い」と思えるためには、どうしたらよいのか。それは、もちろん愛されたり、自分が役に立っているという経験をしたり、友達を作ったり、楽しませたり、親を大事にしたり、褒められたり...。要するに、他者の存在があってこそ、自己の存在を自覚できるのだ。自分は他者にとってプラスの影響を与え、あるいは受ける。そうすることで、自分は生きていて価値のある人間だと思えるのである。

しかし、今言ったようなプラスの経験がないと、自分は価値のない人間だと思い込む。そして、段々と「自分は何者か」なんて思うようになる。

「自分は何者か」は最後の「我々はどこへ行くのか」に繋がっている。「我々はどこから来たのか」が過去で、「我々は何者か」を現在とすれば、「我々はどこへ行くのか」は未来である。そして、一番悩み多いのは、未来である。

不安障害は総じて未来のことを気にする。今のことを気にする必要はない。なぜなら、不安になる現象はイベントは、全て未来にあるからだ。そう!!悩みの全ては未来にあるのである!!!!!!過去がトラウマで前に進めない人間も、結局過去が不安なのではなくて、そのトラウマが未来に悪影響を及ぼすのではないかと思うのが不安なのである!!

そして、未来の不安は、「我々はどこへ行くのか」に集約される。自分はどうなってしまうのだろう。そう、この不安は誰しも経験することだ。それも結構万人に普遍的な不安であるようだ。

何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。 」

これは芥川龍之介の有名過ぎる言葉だが、どんなに才能溢れる人間であれ、将来を危惧し、不安に苛まれるのだ。

そう、例の死にたがり兄貴は、この将来への漠然とした不安について、しばしば漏らしている。俺どうなるんだろうなぁ、将来が見えんね、と...。

この不安は、人によって差があるとは思う。例えば、小学校からずっと不登校で二十歳を迎えた、挙げ句の果てに精神疾患発達障害がある、社会経験皆無、そんな人がいたとしたら、その不安は余りにも大きいだろう。逆に、今まで学生生活を満喫してきて、遊びも恋愛も勉強も完璧!なんて人がいたら、きっと将来もうまくやり仰るに違いない。

死にたがりは、一応通信校生なのだが、もう3年になってしまった。そう、迫られるのは就職か進学。今思えば、彼が急に調子を崩したのは、紛れもない人生の節目であるこの高3という事実だったのかもしれない...。

彼はバイトは長く続けられたものの、やはり人間関係で疲れてしまうことが多い。就職して同じ場所で仕事をすることが果たしてできるのかというと不安なのである。大学はそもそも学校という場にトラウマがあって行けないという。勉強もできない。(頭が悪いのではなくて、手がつかない)こうなると、もうどうしようもなく思えてくる。

僕はやはり大学へ行くことで、将来の選択肢は広まると思うから、行くべきだとは思う。いや、もっと大事なのは、4年間働かなくて済むのである。自立の時期が延長される。要するに、人生のモラトリアムなのである。

といっても、大学生の身分なんてなんの保証にもならない。取り敢えず、4年間通って就職すれば生きてはいけるだろう。みんな就職という確実な未来のために、奴らは盲目的に大学に通っている。しかし、我らメンタルよわよわ人間は、なにがあるか分からない。結局僕が大手に就職したところで、続けられるかどうか分かるはずがない。

ただ、4年間大学という場で、人間関係を築く、そして時には耐える修行をすると思えばなかなか有意義な時間だ。その中で、自分の将来を考えるのである。そもそも、高校生のうちに自分の将来を決めて、はい就職なんて早すぎなのだ。ある程度自由と時間のある大学生になって、将来を考えればそれでいいのではないか。

といっても、彼はもう諦めムードなのでしょうがない。とりあえず、卒業しても暫くは働くのは無理そうである。だから、取り敢えず劇とか支援活動をして、対人関係能力を鍛えていこうという方針ではある。

しかし、彼にも早く自立したいし、お金を貯めたいという気持ちは強いのである。それに、何かを成し遂げたい!!とも思っている。だが、何かを成し遂げるためには、ある程度の精神的余裕と財力がない限り、難しいものだ。

将来働くこともできず、なにも得られず、自由もなく、なにも成し遂げられることなく、野垂れ死ぬ。これが最悪の終わり方だろう。もちろん、そんなラストを迎えさせたくはない。これからも、彼の漠然とした不安を拭うためにも、まずは人並みの生活が出来る様に支援して、精神を安定させなければいけないだろう。

とにかく、この「我々はどこから来たのか」「将来に対するただぼんやりとした不安」これは非常に重くのし掛かる不安だと思う。どうせ就職できない、働けない。動けない。社会に適応できないなら、せめて芸術家や作家にでもなってやろう!なんて逃げようとしてしまう。僕も漫画家なんか諦めて、作家になって暮らしていきたい。でも、多分無理。

この不安を乗り切ってこそ、我々は大人になれるのだろう。多分。僕も分からない。どう乗り切るかもわからない。僕は大学に行って取り敢えず就職することで、折り合いは付けてるけど。人それぞれ。助けて欲しいけど、そんな人もいない。虚しい。ああ寝なきゃ。