陰鬱

考えたこと,感じたこと,思ったことを書く。https://schizzoid.web.fc2.com

なぜ人は苦しみから抜け出せぬか3

③改善への抵抗

まず精神科問わず、あらゆる病気に適用されるのが、疾病利得たる概念である。これは、病気を患っているが故に、様々な社会的義務や金銭問題から免除されることである。社会的義務を例に挙げると、学校登校や出勤などが挙げられるだろうか。そういった社会的通念に照らし合わせて、やらねばならぬことから、精神疾患大義名分に逃げることが可能である。これは、経済的にも身体的にも不利益を被りつつも、ストレスフルな生活から解放されるという利益も受けるのである。社会に適応できない状況というのは、当事者にとっては辛いことだが、かといって社会復帰するのも非常に面倒なことであり、一度そういった社会的義務からの解放の味を知っている者は、その状況に甘んじてしまいがちである。あるいは、特定の障害を持っていることで、公共料金や交通費,入館料などが免除になるなど、金銭面においても優遇される場合もある。このような疾病利得を得るがために、心のどこかでは治したいと思っているのに、治療動機や意思を失くして、精神疾患にしがみ付いてしまうというジレンマに苦しむのである。

また、実際に心理療法やカウンセリングに繋がったとしても、治療抵抗が多く見られる。要するに、長期間精神疾患と付き合ってきた訳であり、その状況から脱して、寛解或いは完治する将来の自己像に怯えるのである。治ってしまった後の自分はどうなってしまうのか、治ったらこれからどう過ごしていけばいいのか、治った後にも漠然とした不安は残されているのである。必ずしも諸疾患の完治が、その人の不安一切を拭えるものだとは考え難いのであり、治療抵抗が発生するのも当然のことである。また、精神分析のように、抑圧してきた無意識(嫌な出来事)を意識化するという作業は非常に苦痛を伴うもので、その際にも治療抵抗は生じる。

また、うつ病といったように投薬が重要な精神疾患において、薬物療法の継続を各人が自発的に履行することも難しい。服薬アドヒアランス(服薬コンプライアンス)を守れない人間も多々存在し、なかなか病状が良い方向に向かわないのである。

最後に、文化的側面も指摘したい。要するに、メンヘラ文化圏なるものが存在するのではないか。精神疾患名や薬の名前をまるでコミュニケーションのツールとして並べ、まるで自己のステータスの如く、治療中の精神疾患の名称を連呼している。そして、メンタルが病んでいるという不健全な状態を正当化するかのような歌だのキャラクターだのSNSなどのコミュニティが存在する。もちろん、病んでいる人間同士分かり合えることもあるだろうし、ピアカウンセリングのように相互扶助的に助け合うことも可能だろう。そして、適度な病み程度なら人生の深みとして、プラスのものとして捉えられるし、人間的な魅力にも繋がるだろう。ただ、あくまで精神疾患に罹患している状態を良しとするようなカルチャーは如何なものかと思う訳である。そこから生まれる“病んでていいんだ”という認識は全然歓迎すべきことだが、“精神疾患を患ってていいんだ”という認識はやはりズレているのではないか。これはあくまで各人の価値観に委ねられる訳だが、その人のQOLを考慮すると、やはりメンヘラ文化にどっぷり浸かることなく、治療に専念すべきだと思う。

また、抑うつリアリズム(うつの人は普通の人間よりも物事を正確に把握している)や、ギフテッド,アウトサイダーアートのような、精神疾患を持った人間の素晴らしき一面を誇張する用語も存在する。それが背景にあるのだろうか、我々は精神疾患を持ちながらも、なんとなく普通の人間を心のどこかで隔絶させ、病んでる自分を正当化するどころか、誇りに思うことすらある。決して病んでる人間全員が才能溢れる人間なのではなく、そういった人間はごく一部なのである。病んでいる状態の苦しみの中に、微小な誇りと快楽がある。そこから、我々は中々逃れることができないのである。