陰鬱

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いつかは骨になる

いずれ人は死ぬ。そして焼かれる。骨になり、粉になり、骨壺に納められ、生涯を閉じる。

そもそも、我々はなんのために生まれたのか。生殖のためか。いや、それすら選択肢から除外できる。我々は人間であり自由意志が備わっているからだ。我々は類稀なる理知的な知性と、文明社会に取り込まれて、生きる意味を模索する。そして、死ぬ意味を模索する。けれども、なにも悩む必要はない。我々は生誕とともに、死へ向かいつつある存在だ。死を以て、我々の人生は完成する。その過程の中で、何かを成し遂げようが、何かを遺そうが、誰かを幸せにしようが、死ねば終わりである。死を以て、我々の仕事は完成する。

中二の夏、おじいちゃんが亡くなった。生前元気だったおじいちゃんが、ピクリとも動かず、眠ったように。葬儀場でその姿を見るや否や僕は泣いた。なぜ泣いたのかよくわからない。本能的に泣いた。そして、数日後には骨になった。サラサラの粉になった。僕はなんだかそら恐ろしい気がした。人間は骨壺に収まる程、こんなにもちっぽけになってしまうのか。それと同時に、人間は儚いと思った。おじいちゃんは造船所で働き、沢山社会に貢献した。でも、これがなにも成し遂げられず、何も遺せず、誰にも愛されず、死んでいったとしたら。まだ人生これからなのに、自死で命を断つとしたら。なんて報われないのだろう。若き子が死ぬたびにそう思うのです。もちろん、自死を尊重すべきだと思いますが、死んだ子もいずれ愛されたかもしれないと思うと、哀しいのです。

虚無主義とでも言えようか、たとえ、私が沢山バイトしようが、お金を稼ごうが、勉強しようが、誰かを愛しようが、結局は死ぬ。どう生きようが自由であるし、いつ死のうが自由だ。生き方に悩む必要もない、怠惰に生きたっていいではないか。

と思っても、我々は死への恐怖を乗り越えることができない。だから、みんな生きている。その恐怖から逃れるために、時間を潰す。経済活動をする。人を愛する。単純なことだ。死への恐怖を超越さえすれば、我々は今言ったようなことをする必要もない。来るべき死を安らかに迎えられれば、別にどうでもいいではないか。ニヒリズム

しかし、我々には欲望と良心がある。そして、他者の幸福を望む存在でもある。他人が苦しんでいれば、助けたいと思う。死への恐怖に取り憑かれている人間を、愛することができる。僕は、博愛主義的な、優しい人間になりたい。ニヒリズムを超えて、僕は優しさを振りまくような人間になりたい。誰かを信じて、たとえ報われなくとも、信じ続ける優しさが欲しい。そんな優しさを持ったところで、いずれは死ぬ。でも、自分の優しさで他人を手助けし、その人が子孫を残せば、僕の慈愛は不可視の形であっても、受け継がれていく。死してなお、私は生きる。この世は儚い、けれども、なにかを遺せる。遺すことは無意味ではない。本能的な生殖サイクルを以て生まれてくる赤子たちに、なにかを遺せることは幸せだろう。


といっても、僕はそのニヒリズムから抜け出せはしない。君をもう幸せにできないと思うと、辛いものがあります。結局あなたも僕もいずれは死んでしまうのだから、もういいやと思ってしまいます。僕は、人生の意味を、見出せなくなりつつあるのではないかと思う。ただ怠惰に生きればいいような気がします。そんなこと考えながらも、頑張ってみようと思う自分もいます。