陰鬱

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悪人無存在論

世の中に悪人なんているのだろうか。

嘘をついて人を欺く人間は悪人か。人のことを馬鹿にする人間は悪人か。人間の苦悩する姿を見るのは悪人か。人を人らしく扱わない人間は悪人か。人の物を盗むのが悪人か。人を殴るのは悪人か。小動物を殺すのは悪人か。人を殺すのは悪人か。

この中の一方は、道徳や価値観の観点から悪と言えようか。他方は、法的に悪と言えようか。

大抵善と悪の判別の問題となると、我々は「道徳的に反するものは悪」「いやいや、法律に違反することが悪」と主張する。正直どらちも正しいと思う。

ここで子どもの道徳発達の際に参照される、ハインツのジレンマを引用してみる。

ハインツのジレンマ

1人の女性が病気で死にかけていますが、ある薬によって助かる可能性があります。
それは、同じ町に住む薬剤師が開発したものです。
薬剤師は、その薬を作るのにかかった費用の10倍の2000ドルの値をつけました。
女性の夫ハインツは知り合い全員にお金を借りましたが、費用の半分しか集められませんでした。
ハインツは自分の妻が死にかけていることを話し、安く売ってくれるように、
さもなければ残りを後で払えないかと薬剤師に頼んでみました。
しかし、薬剤師の返事は 「ダメだ、私がその薬を発見したんだし、
その薬で金儲けをするつもりだからね」 でした。
ハインツはやけを起こして薬局に押し入り、妻のためにその薬を盗み出しました。
ハインツはそんなことをしてよかったのでしょうか、いけなかったのでしょうか?
理由も答えてください。


ここで、道徳観が未発達な子どもは、「こんなことしてはいけない」と答えるらしい。罰を恐れて、規則に雁字搦めにされているのだ。一方、道徳観が発達した子は、「こんなことをしてもよかった」と言う。法への絶対的服従を捨て、良心に則って行ったハインツの気持ちを汲み取ることができるようになる。

まぁ、この話はそこまで関係ないんだけど、価値観や道徳と法律はしばしば相反するもので、その間には深いジレンマがあるということを言いたかった。


「価値観や道徳」と「法律」この二択で善悪を判定するのは僕はどうかと思うわけだ。先に挙げた悪事(としておく)の数々は、一般的な価値観からすれば悪かもしれない。そこまではまぁいい。そこからが問題なのである。

外来仏教の因果応報思想に代々洗脳されてきた日本は、「悪いことをした人間には天罰を!!」という考えが骨の髄まで染み込んでいる。「目には目を歯には歯を」といったハンムラビ法典の復讐法に似たような考えである。こんな考えを持った日本人は、しばしば悪いことをした人間を“ネットリンチ”してみたり、一度でも犯罪を犯した前科者を、決して許そうとしない。

ここに日本人の寛容性の無さが窺える。異質な者(犯罪者や悪人だけでなく、身体障害者精神障害者だってそう)を徹底的に排除する排他性が、ムラ社会の名残として残っている。だから、いつまで経ってもLGBTだって受け入れられない。

だからこそ、私は“汝の敵を愛せ”と隣人愛を唱えるキリストの言葉を心に刻めよと思う。どんな悪人だって、愛さなくても、そこに至る経緯を汲み取ってやれよと思うわけだ。

では、悪人は本当に悪いのか。本当に自分の意思で悪いことをしたのか。

例えば、小さい頃から親から虐待され続けて、愛なんてものは何も知らない。勉強もできないし、学校ではしょっちゅういじめられる。お陰で不登校になって、社会にももう適応できない。親からは家を追い出されて、無一文。そんな人間が、もうやけくそになって、人を殺したとする。ここまで不遇な状況を以てしても、その人のことを悪と決めつけて、見捨ててしまうのだろうか。他の人間が同じ身体(脳)を以て生まれて、同じ経験したら、おそらく同じように殺人をするのではないか。自分は不自由なく暮らせる裕福健全な家庭に生まれたから、そんな奴しらねーよと突き放せるのか。一体どちらが悪人なのか。

もちろん、彼がやったことは道徳的にも法的にも悪だ。しかし、例えば悪の所在を原因に帰属したとしたら、彼は決して悪人とはならない。そもそも、誰も悪人にもならない。なぜなら、その人を悪に駆り立てたのは、環境(大袈裟に言えば我々自身)と運命であるからだ。

一般に人はその人のしたことだけで、善悪を判断し過ぎだ。その背後にある紆余曲折をなにも考慮しない。たとえそれを知ったとして、自分は違うと目を背けて終わり。こんな国民性で何がダイバーシティだよ。死刑囚に教誨を唱える教誨師のようななんでも許せる人間になれとは言わないけど、もう少し犯罪者含めマイノリティに寛容になるべきではないか。

ただこういう話をすると、被害者や遺族の気持ちを蔑ろにしていると言われる。(特に究極の罪である殺人の話になると)

殺人加害者を僕が許したところで、被害者も遺族も憤慨するだけだ。こちらがどれほど辛い思いをしているのか、と。だから、加害者に寛容になるのも大事だが、決して被害者を蚊帳の外にするような態度を取ってはいけない。なぜなら、自分の身内が殺されたら、俺はそいつを殺したいと思うからだ。彼にも訳があった、辛いことがあった、そんなの通用する訳がない。

三者である我々だからこそ、加害者に寛容になれるのだ。いくら寛容になれと言われても、被害者だけには適用されないわけだ。