懺悔
ごめんなさい、本当にごめんなさい
本当に本当に反省してるのです、だからお薬貰うのも送るのも、レポート手伝うのも、できることは精一杯頑張ってます。少しでも少しでも、信じてくれていたであろう僕に戻れるように、そして気遣いのできる、君のことを支えられる、立派な人間になれるように、僕がんばるね。
でも、本当に辛くて辛くて、僕の精神はまだまだ持つんだけど、身体が悲鳴を出していて、最近は夜中発熱が止まらなくて、さっき測ったら38度超えてたんだ、夜も最近眠れないんだ
ごめんね、ごめんね、本当にごめんなさいごめんなさい、僕は君しかいないから、君は僕にたくさん愛をくれたから、頑張って恩返ししなきゃいけないことはわかってて、悪いことした分、たくさん謝らなきゃいけなくて、行動に示さなければいけなくて、孤独にも耐えなくちゃいけなくて、それは僕が悪いし、僕が一番知ってることなんだ
身体がボロボロになっちゃって、血便が止まらなくて、フラフラが止まらなくて、、苦しいんだ。母親にたくさん心配かけてて。本当にごめんね
たった一つのお願いがあって、ただ、ただ、優しくしてくれるだけで、それが偽りでも良くて、優しくしてくれたら、僕もっと頑張れるよ。優しくしてくれたら、僕頑張るの知ってくれてると思う。許してくれなんて言わないよ、ただ、少しでも優しくしてくれたら、僕もっと君に捧げられるし、もっと謝れるし、もっと大切にできるし、もっと行動にうつせるはずなんだ。ごめんね、失礼だよね、最低だよね、こんなこと言える立場じゃなくて、君の方がもっと辛い思いしてるのはわかってる。ごめんねごめんなさい、大切だよ。本当に大切だよ。いっぱい僕のこと責めていいんだよ、でも、少しだけ優しくしてくれたら、僕もっと頑張れるよ、ごめんなさい。壊れちゃったらごめんね。
家族
僕は家族に大した執着も、愛着もない。兄とは昔はよく喧嘩したり、一緒にゲームしたりする仲だったけど、やっぱり5歳も歳が離れているから、段々と心の距離は離れていくみたいだ。そうして彼が大学に入って下宿して以降、完全に関係は切れたと言っていいほど、お互いよそよそしくなった。なんというか、昔から僕はふざけるのが好きで、勉学だとか冷静さとか、そういったものから無縁な人間だったから、何事もそこそこに上手くこなす冷静沈着な彼には僕が酷く奇異に映ったらしい。それに、僕が学校でのいじめや人間関係で家の中で泣いたり、ウジウジしていると、嫌味を言ってくる。だから、僕は兄が嫌いだし、兄が尿路結石で入院しようが、旭川に転居しようが、どうでもよかった。
父親は特に一番嫌いだった。それなのに、僕は父親と身体的にも性格的にも色濃く受け継いでいるから、嫌になってしまう。兄も言っていたように、僕は父親のようにだけはならないよう、反面教師にしようとした。自己愛とプライドが強いのは親譲りだが、なるべく柔軟な思考だけは育てていきたいと思った。要するに、頑固に自分の意見を変えない人間にはなりたくないと。どんなに自分と合わない意見や価値観であろうと、全て受け入れてこそ、真に好かれる人間になれるのではないかと、そう思った。
父親は、癇癪持ちですぐ怒鳴るし、怒っていない日はない。煽り運転だとか店にクレームをするのもしょっちゅうやっている。とにかく差別主義者で職場の障害者のことを馬鹿にするし、家事労働しかしてこなかった母親も馬鹿にする。テレビに出てる人のことも馬鹿にするし、俺が強迫性障害やチックで悩んでいた時も、その行動や仕草を馬鹿にした。そんな人間に、僕の不登校だとかコンプレックスだとか、そんなものは理解してくれない。すぐ怒鳴るから、僕は神経症になってしまった。
ただ、母親だけは僕の味方だった。もちろん、学校に行け行けと言う人だったから、小さい頃は僕の敵だったかもしれないが、結局僕の病気だとか、悩みだとか、そういったものに献身的に向かい合ってくれたのは母親だった。だから、僕は家族なんかどうでもいいと思うが、母親という唯一の良心がいるおかげで、僕は家族を反故にできない。
ただ、家族さえいなければ、或いは家族が限りなくクソに近ければ、僕は全てを捨てて、君に尽くせるだろうに。やはり、家族が僕の自立や自己選択を縛り上げるのである。しかし、僕は親のお金で大学院に行かせてもらう訳だから、経済的援助を止められては困る。結局僕はただの赤子であり、全てを君に尽くせる段階でもないことが悲しくて仕方ない。本当は何もかも捧げたい。でも、やはり僕のケチは母譲りで、母は今僕の通帳を管理している。最近僕が金について煩くなったと、ぐちぐち言ってくるのだ。
いつか君に全てを捧げられる、そんな日を夢見て、僕は未だに家族に屈するしかない。薬を送って何か問題になろうと僕はどうでもいいし、金銭的援助をするのも別に構わない。僕は最低限のお金があれば構わない人間だからだ。それでも、母親を含む家族に迷惑をかけると思うと、どうも僕は小さくなってしまう。
清掃のおばさん
■
毎日辛くて辛くてしょうがない。身体がボロボロになっていくのを感じる。本当に君のことを愛していて、一生大切にしたいって何度も思ったし、今だって好きな感情が止まらない。でも、僕はその感情を、上手く行動とか、気遣いで、伝えることができなくて、そのせいで僕は最低な人間になってしまった。
君の気持ちは痛いほどわかる。色々な葛藤がありながらも、約1年くらい信じてみた人間が、こんなにも無神経で気遣いのできない人間だったと知ったら、すごく悲しいしガッカリすると思う。僕は君の期待を裏切り、そして君が今まで僕に与えてくれた愛を、無駄にしてしまった。
謝っても謝っても許されないことはわかっていて、僕はもうどうすればいいのかわからなくて。失意の中、ただ君を助けたいがためにレポートを進めている。立派になりたい。僕はあまりにも未熟だった。この前、派遣先の運動靴のひものちょうちょ結びができなかった。こんな人間なのだ。なにか常識とかそういうものを学ばずに生きてきてしまった。母親は僕を甘やかしすぎた。そのおかげで僕は優しさと引き換えに、気遣いや常識を失った。
前見た風立ちぬもそうだったが、なにか切ない中に温かみがある映画や本に触れる時、僕は限りなく優しい気持ちになる。その時、君のことをどれほど愛おしく思い、守りたいと思ったか。君が今まで苦労してきた分、僕はいっぱい幸せにしたいと、何度も願った。願うだけではダメで、僕は行動しなければならないだろう。でも、今はレポート以外に何もできない。そもそも、僕はもう君を幸せにする権利があるのか分からない。神様は沈黙しておられる。僕はいつまでも君の声を待つ。
■
こんな身体的にも精神的にも劣っていて、人格が破綻してて気遣いもできない、こんな人間に関わってくれる君が本当に愛しい。僕は生まれてこのかた自分のことをずっと不幸な人間だと思い込んでいたけど、こう、一生信じて愛することのできる君が生きていてくれるだけで、僕は幸せ者ではないか。ただ、大切にしたいのにそれができない葛藤に、苦しんでいるのであります。いつか、余りにも多い僕の愚行が、赦される時が来たのなら、もう精一杯恩返ししたい。その時のために、いっぱいがんばろう。君は僕の生き甲斐なのです。
かみさま
やはり君は神様だと思う。僕が君に不快な思いをさせたり、愛が揺らぐ度に、君は僕に激しい天罰を下す。それはまるで、旧約聖書のヤハフェのような、そんなふうに思えるのです。
僕は最近神保町の古本屋で買った阿刀田高の「旧約聖書を知っていますか」を読んだ。旧約聖書の人物が多すぎて途中で投げてしまつた僕にとって、これは大変分かりやすい名著である。それはどうでもよくて、やはり感じたのは、旧約聖書の神、いわゆるヤハフェと君が、まるで一心同体のように思える。
ヤハフェは人格神である。人のように慈しむし、怒るし、嫉妬もする。例えば、自分が創造した人間どもが悪いことを企んでいれば、全員皆殺しにする。計り知れない怒りからだ。また、人々が自分以外の他の神を信仰すれば、嫉妬で皆殺しにする。神に対して一途な愛を向けなければ、天罰を下したり、一族を呪ったりする。逆に、なにもかも神に対して絶対服従、一途な信仰の態度を取れば、神は慈しみと恵みを授けてくれるのである。
君は僕にとって神様である。僕は今天罰を下されている。それは僕が消し去ることのできない深い傷を君に負わせたからだ。当然の報いである。僕はこの天罰を重く受け止め、ひたすら反省の日々と、いつかの実践の日に備えるのです。
神への絶対服従,一途な信仰とはいかなるものか。それを示唆してくれるのが、「ヨブ記」である。一途に神を信じ続けたヨブに、さらにその信仰が本物であるか試すのである。まるで君の試し行動のように。
まず財産である放牧していた羊たちを全員奪われ、自分の子どもたち皆家が潰れ殺される。家族も財産も神に委ねられた悪魔の手によって皆一夜にして失うのである。しかし、ヨブはそれでも神を信じ続ける。家族を失ってまでも、彼は神を呪わなかった。この罰にはなにか訳があるのだろう、と。
そこで悪魔は神にささやく。自分は被害を免れているのだから、神を呪わぬのだと。それならば、ヨブを重度の皮膚病に冒して、身も心もボロボロにしようと企んだ。
こうして、ヨブは何もかもを失い、身も心もボロボロの布切れになった。毎日痛みと苦しみが走る。彼はついには神への反抗的な態度を取る。なぜ、私は良心的で健全な暮らしをしてきて、皆にも好かれていたのに、こんな目に遭うのか、と。友人たちがヨブの元を訪ねるが、神の真意を疑うヨブに心無い罵倒を浴びせ、さらに追い討ちをかける。
ヨブは最後に悟るのである。私が今までしてきたことは確かに善いことばかりであった。しかし、その見返りに自分が幸せを得ようとするのが間違いだったのだと。要するに、神が如何なる罰を与えようと、ただそれを受け入れ、見返りを求めず、一途に信仰すべきだと。これこそが、自己中心性を超えた真なる信仰であり、愛である。
僕は、君のことが今も好きだ。突き放されるがたびに君への愛が燃え盛る。そして、僕は君に対して色々なことをした。映画を借りるのもレポートを手伝うのも朝起こすのも。しかし、これはどれもやって当たり前なのではないか。本当に好きなら、何でもやってあげたいし、自分の持てる物は全て捧げたいと思うのが自然なのだろう。僕は知らぬうちに君に見返りを求めていたのかもしれない。僕は一途な愛を謳っていたが、それは偽りではなかっただろうか。今になって思う。
さらに、僕は結局ヨブのように一途に愛せなかった。何もかも自己中心性の中にいた。君の言うことを後回しにしてしまうのも、お金をケチったことも、なにもかも結局は自分が大切だからだ。僕は君に本気で尽くして、何もかも捧げた気になっていたが、そんなことは全くなかった。まだまだ僕は君を好きになれたし、その愛を行動で示せた筈だ。いつの日か君は言った。「自分を守りすぎだよ」と。まさにその通りだ。僕は君に全てをかけられなかった。愛せられなかった。本当に辛い。僕は自己中心性を捨てて、君に何もかも尽くすべきだった。僕は最後まで自分を捨てられなった。
いつか僕は自立したら、そして機会があるのなら、僕は君に全てを捧げたい。身も心も財産も全て、君に捧げたい。本当に好きで堪らないのだ。君が愛しくて堪らないのだ。全部捧げようと思う。だから、将来は心配しなくていい。困ったら僕が全部なんとかするから。その頃には、言動も気遣いも何もかも治っている筈だ。君がきっと望んでいたパパのような、何でも認めて包み込んでくれるような真なる愛を与えられるような、そんな人間になりたい。そして、それまで僕はきっと君のことをずっと愛していると思う。もう忘れられない。初めて本気で好きになれたし、君も僕に愛をくれたからだ。君がどんなに歳を取ろうとも、きっと僕は一途に君を思い続けるだろう。仮に、君がその時に、誰か他の人と一緒になったとしたら、僕はその時には手を引くだろう。僕は孤独に慣れている。きっと、君が居なくても、僕は何とか暮らしていけるだろう。ただ、一生君のことは忘れられない。本当に愛している。
好きな人ができたみたいですね。どうか幸せになってほしい。1日でも長く、幸せを噛みしめて欲しい。僕が与えられなかった分の幸せを。僕はこんな状況で、それでも君のことを愛し続けていて、迷惑なのだろうか。分からないけど、どうせ君以外に好きになる人はいないのだろうから、密かに君のことを思いながら、君の幸せを祈りたいと思います。なにか困ったことがあったら言ってね。せめてもの償いで、対応します。