陰鬱

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サラバツバメたちよ 耐え難き永訣の別れ

今日の夕方ごろに、4、5匹の雛と共に、玄関の巣からツバメたちが巣立っていった。つい数週間前は雄のツバメが一匹ぽつんと巣の中に縮こまっていたというのに、今やつがいを見つけて、卵を産み、トンボやらミミズやらを咥えて、お腹を空かしたはらぺこの雛たちに、餌を与えた。そして、今日、彼らは巣立っていった。

ツバメは人が住む家屋に巣を作る。人の出入り故に、天敵から身を守ることができる。心優しき人であれば、巣の補強だったり、雛を救ってあげたりと、フォローだって出来る。人とツバメは共生している。我々は心を通い合えるのだろうか、心なしか彼らは玄関前を幾たびも飛び回り、僕らに感謝の念と、別れの挨拶をしてくれるようだった。

数ヶ月間、自分の玄関を糞で汚してくれたが、彼らの子どもを守り育てようと奮闘する心意気と、生きとしいける者への慈しみの心は、我ら人間も見習うべきものである。そして、我が家をほんの少し、明るくしてくれた。母親とツバメを見守る日々は、なんとなく他愛のないものであった。

しかし、別れは訪れるのだ。いつも忙しなく玄関を飛び交っていたツバメたちがいなくなると少し物寂しい。なんだか、つまらぬ日常に戻ってしまうというか、そんな感じ。

ただ、ツバメは別れを告げ、二度と帰らぬのではない。もうツバメたちが来るようになって、10年以上になる。子は親になり、親が我が家に帰ってくるのだ。そして、子育てをし、子供を産み、その子どもはまた親となって帰ってくる。なんと不思議なことだろう。彼らは数千キロ離れた地へと南下していくが、必ず春になると我が家に帰ってくる。何故帰ってこれるのか。。といっても、可愛いものだ。彼らの血脈は受け継がれていき、死すツバメは土に還り、生きるツバメは空へと飛翔する。生命のサイクル。10年前のツバメはもはや死んでいるだろうけど、彼の血脈は未だ絶えずにいる。死すとも、永遠の別れは訪れることはないのだ。

そんなことを僕は考えてしまう。僕は別れというのが大嫌いだ。居なくなってしまうことが、僕はしばしば耐え難く思う。それには、訳がある。

小学生の頃、仲の良かった友達に僕はおたまじゃくしの折り紙を折って、プレゼントしたことがある。しかし、何を思ったか、そのおたまじゃくしは学校の廊下に打ち捨てられていた。僕はその時ひどく悲しかった。自分の真心込めて作ったものが、捨てられている。僕は何を思ったか、それを拾わなかった。

その頃からである。僕は物を捨てることができなくなった。使ったティッシュだとか、入浴剤の袋だとか、食べた枝豆の皮とか、何から何まで溜め込んだ。親が捨てようとすると、僕は泣きじゃくって、拒絶した。

そのおたまじゃくしを翌日、ゴミ箱に捨てられていないか確認した。けれども、そこには何もない。要するに、僕の魂のこもったおたまじゃくしは消え失せた。ゴミ処理場へと運ばれていったのだ。大事なものが、もはや自分の手に帰ってくることはない。そう考えると、僕は死ぬほど苦しかった。

今は物は捨てられるようになった。けれども、二度と会うことがないんじゃないか、そういう永遠なる別れは、僕は未だに嫌いだ。要するに、人も捨てられない。あの頃の経験が、人への出会いを大事にする契機であった。一期一会のような考えは僕は嫌いで、会う人会う人が宿命の元に、還元されるのではないかと思う。

LINEでの関係とは脆いものである。あれほど仲良くしてた人とも全然話さないし、そもそもアカウントさえ消えて残っていないこともある。そして、高校を辞めて、中学の人たちと関わらなくなったのが何気に辛かったりする。もちろん、家は知っているから、会おうと思えば会えるだろうが。しかし、高校で仲良くなった数人とは、もはや連絡が取れないし、会うことも二度とないだろう。

自分からその人たちを捨てたわけではない。あちらから消えていった。今思えば、僕は関係を切って、人を捨てたことはなかった。僕にとって、二度と会えなくなるという経験は耐え難い。ツバメのように、また帰ってくることはまずない。本当に辛い。僕は誰も捨てたくないはずだった。弱気なこと言って、僕は居なくなる気も、捨てる気も毛頭なかった。僕は、ただ寂しかった。そして、もはや喋らなくなった知り合いたちがまだLINEに幾らかいるが、繋がっているだけで安心するのだった。僕が不要な人間になろうとも、いつか頼られる日が来るのなら、僕はそれでいいのだった。

ところで、僕は一人前のツバメになれるか。彼らは人の人生のサイクルを、たったの数ヶ月で見してくれたようだった。僕は未だに一匹で、自分の部屋から巣立つことすらできない。そして、常に過去にしがみ付き、思い出の中に生きているような僕は、何も遺せず死ぬのではないかと。僕は生物として、ヒトとして、人間として、間違っているのだろうか。