陰鬱

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人はなぜ神を信ずるか

神は目に見えない。故に神なんぞ存在しないかもしれない。それなのに、なぜ我々は神を信じたりするのか。どういう人間が神を信ずるのか。
「弱い人間ほど、宗教を信ずる」という言説があるが、これには語弊があると思う。社会的弱者のように、精神的に強い弱い関わらず、生まれながらの運命や家庭環境や経済状況に翻弄され、否応無しに弱者となるしかなかった人間が、神を信ずるようになった。と言えば、私はある程度納得できるのである。
かつての日本と比べて、現代人の大半は無神教である。一応神頼みだとか、お参りだとかしてみるけれど、それは形式的なものに過ぎず、心から神を信ずるものはいない。では、なぜ我々は神を信じなくなったのだろうか。そして、未だになぜ神を信じる人間もいるのだろうか。
憶測に過ぎないが、単に日本は平和になったからだ。血に塗れた戦争や争いも一切無くなり、経済的に豊かになった。生活保護さえ受ければ、最低限生きていけるようになった。ある程度の倫理観も発達し、あらゆる身分階層の人間も、そこそこ人権を尊重されるようになった。要するに、常に自分の身に危険が降りかかるような苦難の時代は終わりを告げたのだ。どんなに悩み事があっても、殺されることはなくなったのだ。
しかし、昔はどうだろう。原始時代は危険な狩りの最中にいつ身を滅ぼしてもおかしくなかった。戦国時代はしょっちゅう争いが起き、百姓たちは毎日同じルーティーンを繰り返し、上からの徴税により搾取され続けていた。近代に至っても、帝国主義の名の下に戦争を繰り返し、いつ自分が召集されあるいは自国で死ぬかわからない時代であった。経済的にも安定せず、女性や子どもや部落民や同性愛者にも人権は無かった。要するに、今と比べて平和ではなく、一日一日なんとか生きていける時代だった、そして倫理観にも欠けた野蛮な時代でもあった。
戦争と野蛮な人間たちに虐げられ続けた人間に、現実的な逃げ道は存在しない。世界規模で狂っているからだ。それならば、苦難に満ちた人間たちは、超感覚的な存在に身を頼るしかなかった。それが神である。誰も理解されない苦しみを、無条件に受け入れてくれる存在を彼らは欲したのである。出エジプトやバビロン捕囚などで散々虐げられてきたヘブライ人が、ユダヤ教を創り出したように。
ただ、無条件に受け入れてくれる存在を欲したわけでもなく、彼らはスピリチュアルというか、超越的な存在をも信じた。端的に言えば、アニミズム信仰のことだ。人間以外のものに魂や霊魂が存在するという考えだ。代表的なものは「自然」だろうか。
現代の我々は常にスマホばかり見ている。家の中でも外でも常にスマホばかり見ている。「たまには空を見上げてみよう」なんてことも言われる世の中だ。我々の周りに当たり前のように存在している木々や動物たちを意識することは少なくなったし、寧ろ減りつつある。昔の人間はそんなことはなかった。狩りをしたり土器を作ったり畑仕事をしたりしていたけれど、きっと空を見上げ、自然を眺め鳥達の歌声を聴く暇はあったに違いない。自分たちが苦行を強いられている中で、悠久の自然はありのままの姿を彼らに見せていた。そのありのままの姿にも、超感覚的な美しさと法則性が存在し、ますます当時の人たちは自然に魅了され、崇めるようになった。しかし、当時のごく一部の持てる者たちは、自分の快楽を追求するあまり、自然を眺めることもなかっただろう。
このように、社会的弱者と呼ばれる人間たちはいつの時代も、神や自然を信仰した。それは決して彼らが弱くて、馬鹿だということではない。必死に苦行や搾取から耐え、一日一日を謙虚に生きぬき、身近なものや超越的な存在を信じることによって、自我を保ち生を全うした。こういう点で、神や自然はいつでも悩める人間を歓迎する。自分を神と主張したり、お布施を貪るような新興宗教者には腹が立って仕方がない。