陰鬱

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神を創り出した自分

僕の心、いや僕という存在の中には、神が存在する。

それはヤハフェやアッラーでも仏でもない。大川隆法池田大作といったような個人崇拝されているような神(人間)でもない。

僕は特定の教団に属していない所謂無宗教であるが、神を信じている。そして、この世に生きる万人にも、神は傍に存在し、我々を見守っている。殆どの人間は神を信じている。神は普遍かつ遍在しているのだ。

分かりやすく言えば、人間は神頼みをしたり、お参りをしたりする。悪いことをすれば誰も見てなかったとしても、罪悪感を感じる。そこには各々に内在化された保護者・道徳があり、それこそが神なのである。

そう、自分を絶対的に守ってくれる保護者と、善悪の判断に基づく道徳こそが、我々に生得的に存在する神なのである。

神はしばしば創造主と同一視される。この世のあまりにも巧妙に出来過ぎた万物に想いを馳せると、神は絶対的な存在だと思える。しかし、この世に血生臭い争いが絶えず、人々は病気や疫病で命を落とす。こういった負の側面をも神は創り出した。それも含めて神の思惑なのか我々には検証する術はないが、敢えてこの世を不完全にしたとするならば、神は決して善なる存在ではない。神が負の側面を把握できなかったならば、神は部分的には無力なのである。要するに、神は絶対的存在なのではない。

神は一人とは限らない。ギリシャ神話には様々な神が存在するように、創造主意外にも数多存在するのではないか。そして、民族や国家単位で創られる神もいれば、我々各人が作り出した神もいるだろう。それら全てを総合して、神と呼ぶこともできる。

私は、この世に無数に存在する神の一柱を創り出した。それは私の自我(道徳)と似たような働きをしているが、その側面はしばしば退廃する可能性を秘めている。私の神は家庭環境や不遇な経験により容易に歪められる。そして、私が最大の罪を犯し、死刑囚になったっておかしくない。そこで自我的側面の神は死ぬのである。神は不完全な側面を備えているからだ。しかし、もう一つの側面、保護者的な神は永久不滅なのである。

例えば、自分が人間関係に苦しんで、孤立して、誰にも頼る人がいなくなったとき、寂しさのあまり発狂してしまいそうになるとき、己の中の神は私を助けてくれないが、私の存在を唯一認め、見守ってくれる。なにもしてくれないが、それ故に神は不遇な人生を送る私のありのままを受け入れてくれるし、決して責めたりしない、そして許してくれるのである。

たとえ、多くの尊い命を殺め、死刑囚となりこの世に生きる万人から恨まれ憎まれたとしても、己の神だけは命尽きる最後まで見守ってくれる。誰も信じることができず、命を絶とうと身を投じたとしても、死ぬ瞬間まで私を見守ってくれる。大病を患い、心身を自由に動かせず、家族からも厭われながら死ぬ身になったとしても、神は見守ってくれる。人間が命を終える最後の最後まで神は見守り、我々に一縷の希望と安息を与えるのである。

自分の中の神の存在に気付かない限り、我々は真の心の救いを得ることができない。苦しみに苦しみ抜いたとき、あるいは自分の悪行に対して心から贖罪をするとき、己の神の存在を知覚し、人間は信仰に目覚めるのである。

死刑囚や病人が最後に神にすがるように。

そして神は我々を許すのである。   2020/2/28