陰鬱

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メサイアコンプレックス!!

メサイアコンプレックスMessiah complex)とは、キリストコンプレックスまたはメシアコンプレックス救世主妄想とも呼ばれる。個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。


メサイアというのは、一般的な日本語ではメシア救世主)と言われるもののことである。この心理が形成されるのは、自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。

このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。

そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]


おいおい、こりゃあお笑いだぜ

自分の人を救いたい!!という感情は、このような不純たる動機から来ているのだろうか。

しばしば、医者や心理士などの対人援助職は、こういったジレンマに陥るらしい。人を救いたいと思うことは、自分の価値や地位を上げるための一手段に過ぎないのではないか、と。私は心から人を救いたいと思っているのか、と。私の努力は偽善なのか、と。

しかし、たとえその動機が自己本意で不純なものであろうと、「やらぬ善よりやる偽善」なのである。正直、こちらの動機が如何なるものであろうが、援助される側が救われるのなら、それでいいではないか。このメサイアコンプレックスの存在意義とは、自分のそういった不純なる動機や邪念に取り憑かれることなく、いつでも純粋な心を持って、相手しなさいという自己への戒めを促す点にあるだろう。「救わさせていただいている」という考えが大事なのだろう。支援する側が偉そうで傲慢な考え(救ってやっている)を持っていれば、そのことは支援される側にもひしひしと伝わってくるだろうから。それが、信頼関係構築の妨げにもなるだろうから。そもそも、このメサイアコンプレックスのような概念を常に意識してジレンマに陥っている人間なら問題ないだろう。一番問題なのは、そういったジレンマを一切経験せずに、己の能力と優しさを過信して、支援される側に対して、尊大な態度を取ることだろう。

同じような対人援助職のジレンマに、「ほんとに救う必要があるのだろうか」というものがある。例えば、引きこもりの問題。社会に適応できず、どうしようもなくて引きこもる人もいれば、社会のしがらみからを避けて、好き好んで隠遁しているような引きこもりもいる。後者のような引きこもりを無理やり引っ張り出して、社会復帰させることが本当の“救い”なのだろうか。

散々虐められて、対人関係が上手くいかず、職場も転々として、それでうつ病になった人に、無理やりうつ病を治療して、社会復帰させることが本当の“救い”なのだろうか。

これからも自分の人生は苦しみばかりだと分かっているから、自殺しようと決意している人を、無理やり生かして社会復帰させることが“救い”なのだろうか。

不幸の中にも幸せを見出せる人間に、幸福を強要することが本当の“救い”なのだろうか。


援助職の人間は総じて、精神疾患や心理不適応という逆境を乗り越えた先に、必ず幸せがあると信じ込んで支援をする。でも、考えてみれば、心から幸せになれる人間なんてどれほどいるのだ。結局その人が死ぬときに、「ああ、あの時死んでたら、こんなに苦しまずに済んだのにな」なんて思われることになるのかもしれない。「ああ、あの時社会復帰なんてしなければ、また真面目な思いなんてしなくて済んだのに」と思うかもしれない。不確定な未来に幸せを前提とする意識こそが、正義なのだろうか。それとも、援助職の人間は、人を助けたいという性善説の本性に忠実に従っているだけなのだろうか。その人が幸せになるか否かなんてどうでもよくて、取り敢えず“今”の状況を改善するのが援助職の務めなのだろうか。

まあ、こんなこと考えても、答えはない。各人の価値観の問題だろう。ナンセンス。