陰鬱

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大喧嘩

しばしば喧嘩ばかりしている両親ですが、今日も大喧嘩を繰り広げる。母親が入浴の際に窓を開けっぱなしにしてたことに対して、父親がお風呂入った時にブチ切れた。「なんで忘れるんだ、おかしいんじゃないの?」と父親は半ば嘲笑を込めた非難を浴びせる。それに、母親はブチ切れる。些細なミスなのに、何故こうも叱られなきゃいけないのか、余りにも理不尽すぎるからだ。そもそも、父親は極度の潔癖症だから手で窓を閉じることもできない。我々に触れたものなら、汚物扱いされてしまう。日頃から父親の妙な拘りや儀式に注意を払っているのに、少しでもミスをすると大声で怒鳴り散らす。人格否定をする。母親はとうの昔に呆れ果てている。今回の騒動では、挙げ句の果てに母親は「しね!」と一言吐いた。しかし、母親は悪くない。こっちの配慮や努力もつゆ知らず、人格否定するような父親は、死んで当然だと思うだろう。それくらい恨み辛みがあるのだ。なんでこんな人と結婚したのだろう。僕はつくづく人間とは不思議だなと思う。この人のどこを好きになったのだろう。

けれども、僕と母親は決して父親を完全に恨んでいる訳ではない。職場で煙たがられている父親を哀れに思うし、父親の妙な発言に笑ってしまうこともある。なんだかんだ彼を恨めない。そこには理由がある。

たまに、母親は僕が父親の悪口を言うと、擁護することがある。それは、もちろん父親と結婚したという事実があるからだ。なんだかんだ父親の悪口を言って欲しくないのだろう。そして、僕も父親を恨めない。かつてはもう少し優しかったからだ。一緒にお風呂に入って体の隅々まで洗ってくれたし、眠れない時は一緒に眠ってくれたし、戯れたりもしたし、父親のケツの形が好きで、枕代わりにしたこともある。どれも幼少期の想い出に過ぎないが、そういったセピア色のエピソードが、僕の怨恨にストッパーをかける。どんな理不尽な態度を取る父親にも、慈愛の精神が働く。そして、もう少し謙虚になってくれたらなぁと思ったりするのだ。

そう、虐待を受けたり、ネグレクトを受けたりした子どもも、完全には親を恨んでいるかというとそうではない。何だかんだ人間は心のどこかでは優しい側面がある。どんなに虐げられようと、そういった数少ない温かいエピソードが、その人を恨めなくさせる。

中国思想では性善説性悪説なんてものがあるけれど、僕はどれも限定されないと思う。その時々の気分や精神状態、環境によって善なる部分も悪なる部分も顔を見せる。それが人間というものではないか。人間の善悪が生得的に規定されるものではなく、流動的でその時々によって生じるという告子の思想は、強ち間違いではないと思う。

にしても、本当にどこの部分を好きになったのだろうか。あんなにも高慢で自尊心の高い人間のどこに母親は惹かれたのか。永遠の謎である。しかし、母親は父親を選んだのなら、僕はその父親を許してやらなければならないだろう。